1987年度 メルボルン〜大阪カップの記録

  レースの概要

メルボルンから大阪までのレースをどのような性格のレースにするか、色々と検討された。まず、できるだけ画一的でないヨットでも参加でき、一般の人々にも分かり易いレースにするため、I.O.Rなどのルールによるハンディキャップを使用しないスクラッチレースとした。またスクラッチレースであれば、艇の性能による差が出てくるのは当然であるから、参加者の創意工夫が取り入れられるよう船体および艇装に対する制限をほとんど加えていない。

近年シングルハンドなどのショートハンドレースがさかんになっている。今回のレースコースは大洋横断ではなく、縦断である。サンゴ礁などの多い海域を通過するから、常に1名は起きて居られるようダブルハンドとした。少人数で帆走するためには、帆装などを1人でも扱えるような工夫をこらさなければならない。その点からも艇体艤装に制限を加えないことが必要である。

The fleet at SYC

スクラッチレースでは、参加艇の性能の差が大きすぎてはレースの興味が薄れてしまうし、先頭艇がフィニッシュしてからレースが終了するまでの期間が長くなりすぎる。そこでまず艇の長さを10m〜16mとし、さらにそれをA, B 2クラスに分けることにした。日本では12mまでの艇が多く、12mをこえる長さの艇は数少ないことを考慮して12mを境としたが、クラスAは12〜 16mとクラスBに較べて範囲が広くなりすぎることになってしまった。

南太平洋には多数のヨットが島々を訪ねてクルージングを楽しんでいる。これらのヨットにも広く参加を呼びかけ、レーサーとは別ののんびりとヨットを楽しむ人々にも門戸を開放するためにクルーザーグループを設けた。クルーザーは居住性を重視しているのでどうしても重量が重くなり、レースを意識した軽量艇よりも速力が遅くなりがちである。レースに参加しても勝つ可能性の少ない重量艇を軽量艇と分離し、クルーザーの参加を期待したのはヨットレースとしては珍しい試みであった。

ダブルハンドでサンゴ礁の多い海域を通過するレースであるから、安全対策には十分注意しなければならない。まず乗員の方にはショートハンド航海の経験を要求し、艇に対しては、外洋レースに適用する安全規則として最もきびしいI.O.R.特別規則のカテゴリー0を適用することにした。この規則は遭難時の自動位置通報装置(EPIRB)を要求しているが、事故発生時の連絡を確実にするため、十分な無線設備を要求するだけでなく、後述のアルゴス(ARGOS)システムを使用して各艇の位置を確認し、関係国の救助機関に定期的に連絡を取った。

オーストラリア東方海域は1〜3月頃サイクロンが発生する可能性が多く、一方北半球に入った南洋諸島近海では5月頃から台風が発生し始める。そこでサイクロンの発生が少なくなる頃オーストラリアをスタートし、台風が発生し始める頃には危険海域を通過してしまうよう、3月下旬にメルボルンをスタートすることに決定した。

メルボルンから大阪までのコースでは、途中ニューギニア付近に島の密集している海域があるが、通航制限は設けずどのようなコースをとってもよいことにした。ただし大阪湾への入口だけは最も広い由良瀬戸の通航を指定したが、これは安全上の問題のほかに、大阪湾に入るレース艇を主催者側が確認し易くすることも考えての制限であった。

姉妹港であるメルボルン港と大阪港を結ぶこのレースは、メルボルン港をスタートして大阪港にフィニッシュするが、メルボルン港のあるポートフィリップ湾の出口は潮流が速い上に幅が狭く危険なため、この海峡を昼間に順流に乗って出て行くようにスタート時刻を設定しなければならない。そこでレースコースを、メルボルン港から湾口近くのライまでの第一レグと、湾口に最も近いポートシーから大阪までの第二レグとに分けた。こうすれば最も都合のよい時刻にポートフィリップ海峡を全艇一斉に通過することができる。

  アルゴスシステム

アルゴスシステムは、気温水温などの気象·海象データを自動的に集めるためのシステムである。それらのデータを測定している海上の機器は、南北に回っている人工衛星が発射する間合せ電波を受信すると、気温などの数値を頭上の人工衛星に送信する。人工衛星はそのデータを蓄積して、アラスカにあるキーステーションの上を通過する際に一括して送り込む。ステーションではそのデータを解析して、気温などのほかその電波を発射した機器の緯度経度を正確に求める。

このシステムで得られる位置は極めて正確であり、しかも人工衛星を使用して全地球上をカバーしているため、気温などのデータを集める目的から次第に位置を求める方に重点を置いた使われ方をするようになった。今までにこの発信器はブイにつけて流すことにより海流の経路を調査したり、イルカに取付けて行動範囲を求めたり各方面で利用されているが、ヨットレースでも大西洋シングルハンドレースなどで使用した例がある。日本では1980年野性号IIIの航海が最初の使用となった。ヨットに載せた発信器が出す電波を陸上基地局で解析して位置を出すため、ヨット側では自分の位置を知ることはできない。しかしこの発信器のピンを抜くと異常信号が発信され、何か非常事態が発生したことが分かる。ただし衛星がその上を通過して受信し、その信号をキーステーションの上に来て送り込まなければ非常事態の発生したことが分からないから、通常ピンを抜いてから、2〜5時間位の遅れが出るのは避けられない。後述の<キャスタウェイ·フィジー>の遭難事故の第一報はアルゴスシステムによって得られ、しかもその位置を次々に通報し続け救助活動に大いに役立った。

各艇の出した電波はアラスカで一括受取り解析の上、フランスのツールーズのコンピューターセンターへ転送され、位置、艇速、走航方向、航行距離等の種別に整理してコンピューターのメモリーに収められる。大阪およびメルボルンからは国際回線を通じてツールーズのコンピューターを呼び出し、手もとのコンピューターに取りこんでデータを打ち出す。ただし異常信号を発見した時は直ちにフランスの救助機関を通じて関係国の救助機関に通報するとともに、テレックスで大阪へデータが送られるようになっていた。

  参加申込み状況

1984年1月頃から検討を進めてきたレースの概要がほぼまとまった10月。レースの企画内容を公表し、続いて翌1985年1月には、レース告示を世界各地のヨットクラブおよびヨット関係雑誌に発送、公式発表を行った。3月には早々とエントリー第1号の丹羽夫妻が名乗りをあげたが、その後はレースに対する問合せはあっても参加申込みは少なく、1年後の1985年末になっても10艇程度にすぎなかった。しかし関係者の努力もあって次第にこのレースが知られるようになり、1986年夏頃から申込みが増え始め、予想を大幅に上廻る参加数になることが確実となり、関係者をあわてさせた。

結局、申込み締切りの1986年末日には、申込んだ艇は97艇にのぼった。しかし一方では参加を断念する者もあり、締切り時の参加艇は90艇であった。参加取消はその後も続き、艇長会議当日までに27艇が取消を表明した。参加取消の理由は、予定していたスポンサーが見つからない、準備が間に合わないなど様々だが、一緒に乗る奥さんが妊娠したためというほほえましい話がある一方、メルボルンへ回航中バス海峡でマストを折って断念という気の毒な艇もあった。

  安全検査

このレースでは、外洋レースに用いられている安全規則のうち、最もきびしいI.O.R.特別規則カテゴリー0を適用しており、参加艇が規則通りの備品を持っているか検査しなければならない。しかし参加艇が余りに多くなったため、ホストクラブであるサンドリンガム·ヨットクラブに全艇を収容することができず、係留場所としてメルボルン港内ビクトリアドッグの一部を使用し、数艇ずつサンドリンガム·ヨットクラブに廻航し安全検査を実施した。参加艇の中にはスタート前の整備のため周辺のヨットクラブ等で上架する艇もあり、各艇の動勢がつかみにくかったが、スタート前には大部分の艇がビクトリアドッグに集まってレースの雰囲気が次第に盛り上がっていった。

参加艇は排水量の重いクルーザークレープと軽いレーサーグループとに分かれる。排水量を実測するには相当な費用と手数を必要とするから、排水量は自己申告とし疑問のある艇があればレースコミッティが実測するようになっていた。グループの境目のあたりの排水量を持つ艇は、わずかな排水量の差で所属グループが変わるため、数艇が申込み時のグループから他のグループに移ったが、自らクレーンで吊って排水量を実測し所属グループを確認した艇もあった。

I.O.R.ルールでは救急薬品を持つことを要求しているが、薬品のリストまでは記していない。それに対しオーストラリアのルールでは薬品の種類と数量を明記しており、その中に鎮痛剤としてモルヒネ注射薬が入っている。もちろんこの種の薬品は、オーストラリアでも厳重な管理下にあるが、特に取締りのきびしい日本からの参加者からモルヒネを持つことに対する不安が表明された。しかしオーストラリアでは法規上も認められている要求であるので、正規の手続きによって購入し、日本到着と同時に麻薬取締官に引き渡すこととなった。

参加艇はスタートの一週間前までにサンドリンガム·ヨットクラブに到着し、順次安全検査を受けることになっていたが、結局スタート前日までに64艇が検査にパスした。

  第一レグのスタート

スタート前夜からの強い風が次第におさまり、3月21日10時(EST)のスタートの頃には、時々小雨のパラつく曇り空に6〜7mの風となっていた。スタートラインとなるプリンセスビアの上では、ブラスバンドなどが見物に集まった人々を楽しませていたが、海上にもメルボルン市長のヨットをはじめ多数のポートが出て、遥か北半球へと出発するレース艇を盛大に見送った。

Departing Port Phillip heads

艇の整備が間に合わなかった3艇を除く61艇スタートし、陸岸から見えるようにという配慮もあって、湾岸に沿って設定されたコースを一路ライに向かった。最初にフィニッシュラインを横切ったのは<キャスタウェイ·フィジー>であったが、同艇はスタートの際指定されたスタートラインを通過していなかったため失格となり、他に1隻のリコール艇があって、結局23艇がタイムリミットまでに到着、2艇が失格という結果に終わった。

到着した艇は、ライ·ピアのやや西にあるブレアゴーリーヨットスクォードロンの前面に錨泊し、タ方からクラブハウスでパーティーが始まった。しかし、クラスA1位の<ベンガルⅢ>に対して抗議が提出され、その決着が翌日に持ち越されたため予定していた第一レグの表彰は行われず、大阪での表彰式の際表彰盾を授与することになった。

  第二レグのスタート

ポートシーから大阪まで約5,500マイル(約1万200キロメートル)のメインコース第二レグのスタートは、ポートフィリップ湾口の潮流を考慮して午後1時(EST)であった。前日と同じく時に冷い小雨を伴った7〜8mの風に恵まれ、相当数の艇がややリーフ気味のセールでスタートラインを横切り、大阪への長い航海に旅立った。ポートシーはメルボルンから離れた小さな町なので、前日に較べれば数少ないとはいうものの100隻近くのボートがレース艇を見送り、9機の取材ヘリコプターが飛びかっていた。

スタート後間もなく<SDC波切大王>がトップに立ち、それに<キャスタウェイ·フィジー>が並び、この2艇が他艇を少し引き離してそのまま白波の立つフィリップ海峡を通過してバス海峡へ出て行った。

前日スタートした艇の中、長いレースに備えて十分に整備するため、あるいは新たな故障を生じたためなどで数隻が第二レグのスタートには間に合わず、正規のスタート時刻にスタートしたのは58艇であった。スタートに遅れた艇には 1週間後まではスタートが認められているが、早い艇は数時間後にはスタートし、遅い艇でも翌日にはスタートして行った。

  リタイア状況

ポートフィリップ湾から出たバス海峡は、強い西風の吹く難所といわれている。レースに参加するための回航中にバス海峡で艇体を損傷した艇が数隻あったリ、中にはマストを折って参加を断念した艇もあったくらいだ。さいわい、スタートした頃は風が弱まりつつあった時期であり、しかも西風を後ろから受けて走るため、有名なバス海峡ではリタイア艇が出なかった。しかし、オーストラリアの南から東岸に回りこんだ頃、次の低気圧が接近して風が強まり、3月27日<コウベ·ゴーフル>がマストを折り、リタイアしてシドニーへ向かったのを皮切りにリタイア艇が続出、特に3月30日には一挙に8艇がレースから離脱した。もっともその中の1隻はサイドステイのチェーンプレートが浮き上がったためディスマストしたが、シドニーに入港して新しいマストを手に入れて修理し、大阪に到着した。しかし同艇は規則に従って失格となった。

リタイアは乗員の都合による1艇を除いて何らかの故障を理由としている。完走した艇の中にもさまざまな故障に悩まされながら、自力で修理した艇もあり、ディスマストなどの重大な損傷では手の打ちようもないが、少々の損傷は自力で対処していた。近年艇の軽量化が進んだためかレース中のリタイアが増加しているが、本レースでもリタイア艇はスタートした64艇の1/4に近い17艇にのぼ った。

  <キャスタウェイ·フィジー>の事故

<キャスタウェイ·フィジー>は、スタート以来<SDC波切大王>とトップを争っていたが、4月2日バラスト·キール折損のため横転し、翌日には沈没したようである。スキッパーのディグビー·テイラー氏は後続のレース艇に救助されたが、クルーのコリン·アクハースト氏は行方不明となった。テイラー氏の報告と当時の無線交信とによれば事故の概要は次のようである。

テイラー氏がキャビン内で睡眠中、4月2日午前1時(EST)頃突然艇が転覆し、やがて裏返しとなった。同氏は脱出し水面に出たが、アクハースト氏の姿は見えず、しばらくは互に声を掛け合っていたが半時間ほどで声も聞こえなくなった。バラストは根元が少し残っているだけであった波に揺られてマストが折れ、艇が起き上がったがデッキ上を波が越えて行く有様であった。艇が起きたのでアルゴス発信機を取外して作動させた。この発信機が南緯18.375度、東経156.747度で非常信号を出しているのを午前3時21分(EST)に衛星が受信しており、衛星からのデータを解析した結果午前6時14分に非常信号を出していることが関係者に通知された。なおアルゴスの示す遭難地点には暗礁がないから、バラストキールが岩に当たって折損した可能性は考えられない。

テイラー氏はライフリングとアルゴス発信機をアクハースト氏のために流し、もう一つのライフリングにつかまっていたが、夜明けの少し前にキャビンの入口近くに取付けてあった自動遭難信号発信ブイ(EPIRB)を取り出して作動させた。この信号はその後午前10時22分(EST)上空を通過した航空機が受信し、同艇の遭難が確認された。テイラー氏はライフラフトが船室前方にあるため、艇内で水に潜って取りに行くことをあきらめて艇から離れないように漂流していた。

同艇の遭難地点はオーストラリアとニューカレドニアの中間に当たるが、まずフランス空軍の航空機が捜索に飛び立ち、14時30分、漂流中の艇を発見しライフラフトを投下し、1名がそれに泳ぎついて乗るのを確認した。テイラー氏はラフトに乗り込むと疲れのためやがて眠ってしまった。

一方無線局から <キャスタウェイ・フィジー>の捜索依頼がレース艇に送られ、5艇がそれに応じて遭難海域に向かった、クラスBのトップを走っていた<キリビリー>は、捜索依頼を遭難地点から140海里離れた所で受信し、午後8時頃小さな灯火をつけて漂流中のライフラフトを発見、テイラー氏を救助した。またマレーシアの3万トンバラ積貨物船ブンガケシダン号も現場に到着し捜索に加わったので、テイラー氏は<キリビリー>からブンガケシダンに移乗し、<キリビリー>はレースに復帰した。

フランス軍機のあとをオーストラリア機が引き継いで、行方不明のアクハースト氏の捜索を続けたが、翌3日夕方になっても何の痕跡も発見できず捜索活動は縮小された。ブンガケシダン号もテイラー氏とともに約30時間捜索を行った後、もとの針路に戻り、その後ラバウルに寄港してテイラー氏を上陸させた。

捜索活動に向かったレース艇は、<キリビリー>、<シトカ>、<サンチェイサー>、<デヴォーナ>、<サーアイザック>の5艇であり、この内各艇の航跡から見てあまりレースに不利にはならなかったと思われる<デヴォーナ>、<サーアイザック>の2艇は、申出がないこともあってロスタイムを算出していないが、他の3艇に対しては救助捜索活動によるロスタイムがレース所要時間から差し引かれている。またテイラー氏を救助した<キリビリー>の乗員に対しては、表彰式の席上ニュージーランド大使から感謝の言葉とともに記念品が贈られた。

  フィニッシュ

日本近海、特に紀伊水道から大阪湾は船の数が多く、それまで全く船の姿を見ることのなかった参加艇にとっては最も緊張した海域であったに違いない。大阪港外に設定したフィニッシュライン付近は錨泊中の船が多く、夜間は陸地の灯火のため南からフィニッシュラインを見付けるのが難しいので、エスコート艇を出してレース艇をフィニッシュラインまで誘導した。アルゴスによる位置は、データを入手するまでの時間遅れのためフィニッシュ間近になると利用できず、無線による直接連絡に頼らざるを得ない。しかし、日本に近づいてからの疲れのためか、無線連絡がうまくいかない場合が多く、夜間エスコート艇がレース艇と接触するのに手間どった。大阪湾内の風が変わりやすく、レース艇の動向を予測しにくくした。

4月23日午前7時6分(JST)、大方の予想より早い32日足らずの日数で、<SDC波切大王>がファーストフィニッシュし、打上げ花火、消防艇の放水で歓迎された。その後は連日フィニッシュが続き、1日5艇が到着という日もあったが、それだけに紀伊水道に近づいて以後互に相手を視認できる位の距離で一緒に走って来た艇、大阪湾に入ってから追い抜かれた艇、1ヵ月以上もの長いレースながらもわずかに2分足らずの差でフィニッシュした艇などがある。

ファーストフィニッシュからちょうど1ヵ月後、最終艇がフィニッシュしてレースは終了した。スタート後62日目、最短所要日数の約2倍をかけての到着であった。しかしタイムリミットまで3週間近い余裕を残していた。

  各艇のコース

本レースではコースを自由に選べるため、ニューギニア東方でどの島の間を通過するのが良いかがコース選定の大きな問題点であった。日本からの参加艇のうち数艇は、メルボルンへの回航を兼ねて調査航海をしている。コースとしてはソロモン群島の東コース、ニューヘブリデスとニューブリテンとの間の中央コース、ニューブリテンとニューギニアとの間の西コースの3つがあり、中央コースが距離としては最も短くなるが、この島の北側付近は、赤道をはさんで南北にある貿易風帯の間にあたり、風向風力ともに貿易風帯のように安定はしていない地域にあたる。

各艇のとったコースを見ると、東寄りが10艇、中央が35艇、西寄りが1艇となり、大部分が常識的な最短コースを選んでいる。また東寄りコースをとった艇には艇速の遅い艇が多いが、風に関する統計を見ると東寄りコースの方が多少風が良いかとも思われ、スピードの出にくい重量艇が風を期待して東へ寄せたのかもしれない。

コースのほぼ中間にあたる赤道を、4月8日夜<SDC波切大王>が最初に通過し、10日朝 <アルスター>、<ドクター頼>と続いた。赤道通過の順位を見ると、その後大幅な順位の入れ替わりはなく、その後は断然有利となったコースがあるようには思われない。

日本の南を東西に流れる黒潮は、日本に近づくにつれて風が弱くなるだけに、紀伊水道より西寄りで横断するように北上するのが常識的なコースであるが、現在冷水塊のため黒潮が日本から離れて南に移っているためか、黒潮に流されて紀伊水道に入るのに苦心した艇はなかったようである。むしろレース艇にとって最大の難関は由良瀬戸の潮流の方であった。

ゴール

4月23日午前7時6分26秒<SDC波切大王 R-A エントリーナンバー46>が大阪 北港マリーナ沖にファーストホームでフィニッシュ。取材ヘリコプター、歓迎艇に囲ま れて1,000人か出迎える港にもやいを取った。31日問19時間6分26秒の航海であっ た。翌24日早朝<ドクター頼 R-A エントリーナンバー39>が、25日早朝<アルスタ ー R-A エントリーナンバー95>がフィニッシュ、以後続々とフィニッシュが続いた。 それぞれの闘いが終わったその日、勝者も敗者も誇りと自信と安堵で輝いていた。5月23日午前4時7分52秒、<ボリスB C エントリーナンバー68>が雨の中をラスト フィニッシュ、62日間のレースが終了した。46艇が5,500マイルを完走、8艇が途中リタイアした。

 

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