1. レースの概要
今回のYAMAHA MELBOURNE OSAKA CUPメルボルン/大阪ダブルハンドヨットレース1991は、1987年に初めて行われたレースの第2回目のレースであり、今後も4年毎に実施されることになっている。このレースは、乗員を集めるのに苦労しないでも参加できるショートハンドレースではあるが、コースの途中にサンゴ礁の点在する海域があるので、常に1人は起きていられるように二人乗りで行われる。
また南太平洋あたりにはクルージングを楽しんでいる艇が多く、それらの艇はレースを目的としていないだけに、どうしても丈夫で重くなりがちである。そこで重量の大きい艇をクルーザーグループとして、軽くてスピードの出るレーサーとは別に扱い、クルージング中の艇が日本を訪問しやすいように考慮しているのは珍しい試みであろう。
安全上の要求は別として、艇および艤装に対する制限をあまり設けないで、少人数で航海するための工夫を取り入れられるようにしているが、参加艇には外洋レースの安全規則としては最も厳しいORC特別規則のカテゴリー0を適用し、参加者に対してはショートハンドでの航海経験を参加条件としている。また主催者がアルゴス端末機を搭載して常時参加艇の船位を把握し、そのデータを関係機関に通報するほか、衛星系イーパーブを貸与して、アルゴスと共に非常事態が発生したときには確実に捕捉できるようにしてある。
このレースはハンディキャップなしのスクラッチレース、すなわち先に到着した艇の勝ちという、ヨットレースになじみのない人にも分かりやすいレースである。しかしスクラッチレースでは、艇の長さにあまり大小の差があると、長さの短い艇の勝ち目がなくなるので、レーサーグループを全長2メートル毎に三つのクラスに分け、艇の長さによる不公平をできるだけ少なくするようにしてある。なおこれだけの距離をしかも2名だけで航海しようとすれば、大きすぎる艇は扱いにくく、小さすぎる艇は積載量に無理があり、おのずから艇の大きさの範囲が決まってしまうが、このレースでは全長10から16メートルの艇に限定している。
参加艇の性能あるいはコースの取り方によって、所要日数に相当な差が出て来るのは当然であるが、いつまでもレースが終わらないようではレース運営上困るので、4週間または3週間のタイムリミットを設けてレースを打ち切ることにしている。このタイムリミット内にフィニッシュした艇には、参加のための回航あるいは帰航に要する費用の一部に当てるよう補助金が支給される。
赤道の北側、南洋諸島付近では、5月に入ると台風が発生し始めるので、できるだけ早くレース艇が赤道を通過し終わる方が無難である。一方オーストラリアでは3月頃までは東方海域にサイクロン発生の可能性が残っている。この間隙をねらってメルボルンを3月下旬にスタートと決めているが、その結果大阪へは5月初めの連休前後に多くの艇が到着するようになった。
姉妹港として親密な関係にあるメルボルン港をスタートし大阪港にフィニッシュするコースでは、メルボルン港のあるポートフィリップ湾の出口が問題になる。この海峡は狭くて潮流が速く危険なため、昼間にしかも順流にのって通過しなければならない。そこでこのレースではコースをメルボルン港から湾の出口近くまでの第1レグ、そこから大阪港までの第2レグの二つに分け、第1レグのフィニッシュ後一晩仮泊し、第2レグのスタートは順流の初期に湾口を通過できるようにスタート時刻を調整している。この二つのレグは距離に差があり過ぎるため所要時間を合算せず、第1レグはフィニッシュ後直ちに現地で第1レグだけの表彰式を行い、大阪では第2レグの順位によって表彰式を行っている。ただし参加艇はやむを得ないと認められた場合は別として、メルボルン港から大阪港までの全コースを完走しなければならない。またこのような長距離のレースでは、大阪到着後規則違反のため失格を宣言されたのでは気の毒であるとの考えから、重大な規則違反以外は失格にはせず、タイムペナルティーで処理することになっている。
2. アルゴスと衛星系イーパーブ
レース中の参加艇は、無線の定時交信によって動静を把握することになっているが、無線連絡は混信などのため必ずしも確保できるとはかぎらないので、レース艇の位置の把握および非常事態の通報のため、アルゴス端末機ならびに衛星系イーパーブを各艇に取り付けている。アルゴスは、本来気象海象の自動観測用に開発されたシステムだが、位置が測定できる機能を持っている端末機が上空を通過する衛星に向けて信号を送り、その信号を受信した衛星は信号を記録しておいて基地局の上に来た時に地上に下ろす。この信号を解析して各艇のその時刻での経度緯度を算出する。また事故発生時には、端末機のピンを引き抜くと信号が変わって異常を知らせるようになっている。
アルゴスで求められた位置は、衛星の飛来間隔、データ処理などのため、2~6時間後に入手できる。この位置は定時交信の際、無線で全艇に通報され、自艇の位置測定精度のチェックに、艇によっては他艇の動向の監視などに利用されていたようである。
イーパーブは、救助を求めるための遭難信号発信機であり、従来は航空機あるいは陸上局がイーパーブからの電波を受信して救助機関に連絡していたが、近年衛星が受信し自動的に発信機の位置を計算して、もよりの救助機関に通報する衛星系イーパーブのシステムが実用化され、すでにいくつかの国では使用され始めている。日本では衛星系イーパーブがまだ許可されていないが、今回のレースでは郵政省の特別の許可を受けて、東洋通信機株式会社から提供された機材を実験的に各艇に取り付けた。
3. 参加申し込み状況
1989年2月8日にレース告示が発表されると、直ちに3艇から参加申し込みがあり、この3艇は抽選によりエントリーナンバーを決定した。1987年の第1回レース参加者で、次回のレースにも参加したいと言っていた人達の申し込みもあって、告示公表後しばらくはエントリー数が伸びて行ったが、スタート 1年前の時点では24艇のエントリーにとどまっていた。1990年10月末の締め切りまでに申し込み総数は69艇になったが、それまでに参加を取り消した艇が4艇あり、結局最終的なエントリー数は65艇であった。その中にはこの海域のレースでは珍しい、ソ連からの3艇、ブルガリアからの1艇が含まれている。その後スタートまでに20艇が参加を取り消し、1艇はメルボルンでの安全検査にはパスしたが参加を取り止め、2艇はついにメルボルンに姿を見せず、結局レースに参加したのは42艇であった。参加取り止めの理由はよくわからないが、経済的な理由が多いように思われる。
4. 安全検査
メルボルンに到着した参加艇は、まずサンドリンガム·ヨットクラブで規則が要求する設備備品が完備しているか検査を受け、その後ビクトリアドックに回航してアルゴス端末機および衛星系イーパーブを取り付けることになっていた。その過程で検査担当者から、2艇についてプロペラの取り付けに問題ありとの指摘があった。
レース委員会はその取り扱いを協議した結果、最終決定までの時間を短縮するため、レース委員会から直接インターナショナルジュリーに裁定を求めることになり、その旨をインターナショナルジュリーに連絡した。ジュリーは3月21日に協議の結果、2艇のプロペラは規則に違反せずレースへの参加差し支えなしとの裁定を下し、規則によりこの裁定が最終的な裁定として確定した。この裁定に対して異議を唱える艇からは、第1レグおよび第2レグのフィニッシュ後2艇に対し抗議が提出されたが、いずれも却下された。
参加艇の大部分は検査をパスし、備品等に不備のあった艇も不足品を補充し、最後まで無線の周波数で問題の残っていた艇も、無線機の寄贈によって問題は解決し、スタート前日までには全艇の検査が終了した。サンドリンガムに到着する艇に対し、早くから計画的に作業を進めた検査担当者の努力の結果である。
5. 第1レグ
安全検査を済ませレースには42艇が参加する予定であったが、第1レグスタートの前日マストの整備不良のためスタートを延期したいとの申し出があった。この艇は翌日までに整備を終了してポートシーに回航し、第2レグのスタートには間に合ったが、規則により6時間のタイムペナルティーとなった。
第1レグのスタートは、3月23日午前10時30分、オーストラリア海軍の<ウォーナンブール>の号砲により行われ、41艇がスタートした。3艇がリコールとなり、うち2艇はスタートラインに戻ったが、1艇は戻らなかったため、最初にフィニッシュしたにもかかわらず失格となった。
メルボルン港外プリンセスピア沖のスタートラインを横切った41艇は、約200隻の観覧艇に見送られながら、南南西5~6メートルの風を受けて、ポートフィリップ湾の東岸沿いにライ沖合のフィニッシュラインへと向かった。
第1レグのタイムリミットまでにフィニッシュしたのは31艇、うち1艇は失格、10艇は時間内に到着できなかった。第1レグの表彰式はその夜8時頃から、レース艇を停泊させてもらっているブレアゴーリー·ヨットスコードロンのクラブハウスで行われ、下記の艇が表彰を受けた。
レーサーグループ
クラスA
1位 <ラッキー&ラッピー>
2位 <フジ·ロジテック>
3位 <アイキャンドゥ>
クラスB
1位 <アラベスク>
2位 <コマンドール·ベーリング>
3位 <ビーバーハウス>
クラスC
1位 <フライング·フィッシュ>
2位 <ライカ>
3位 <ラトル·アンド·ハム·オブ·カイオー>
クルーザーグループ
1位 <ノッツ>
2位 <マリーナ·シティ·クラブ>
3位 <ノースムアー>
6. 第2レグのスタート
整備不良のため第1レグのスタートに参加できなかった艇が整備を終えて、第2レグのスートまでにポートシーに到着し、第2レグには参加できたが、<フリーランス>のリンスキー氏が、スタートの約2時間前、調理中両足の広い範囲に火傷を負い、病院に運ばれたため同艇はスタートできず、第2レグのスタートも41艇となった。リンスキー氏は、その後メルボルンに転院治療していたが、順調に回復して3月28日には退院し、包帯姿のまま大量の医療品を積んで30日午前7時に5日半遅れてスタートした。41艇は第1レグと同じ<ウォーナンブール>の号砲により、午後2時15分スタート、抜けるような青空のもと、南寄り4メートルの風を受けて順流の湾口を次々に通過し、大阪へ向けて出発していった。
オーストラリアとタスマニア島とにはさまれたバス海峡は、よく荒れるので有名な海峡だが、幸い低気圧が通過した後にスタートしたため、各艇ともバス海峡を無事通過し、予想どおりクラスAの大型艇集団を先頭にタスマン海に入った。
7. レース中の事故と<サザン·デュフォー>の沈没
先頭艇グループがオーストラリア東岸に達した頃、低気圧の通過により最初の荒天に遭遇、漏水の生じた艇をはじめとして、リギントラブル、セール破損、座礁など次々に問題を起こした艇があった。が、いずれも応急処置によりレースを続行した。重大な事故としては2件の舵折損があげられる。
<マリーナ·シティ·クラブ>は、4月5日朝10~ 15メートルの風を受けて快走中、突然舵が折れた。その際特に衝撃は感じなかったとのことなので、漂流物との衝突ではなかったようである。同艇は修理のためタウンズビルに向かい、13日夜入港、新しい舵を取り付け、18日タウンズビルを出港してレースに復帰した。同艇は5月21日フィニッシュしたが、外部の援助を受けたことにより、10%のタイムペナルティーが科せられた。
<サザン·デュフォー>は、4月21日朝舵を失った。当時たいした荒天ではなかったので、浮遊物のため舵を折損したのではないかと思われる。同艇は浸水し始めついに艇を放棄せざるを得なくなり、その旨をグアムのコーストガードに連絡し、イーバーブその他の備品を持ってライフラフトに移乗した。ペンタコムスタットからの通報を受けて、付近のレース艇が救助に向かったが、結局グアムを発進したアメリカ海軍の航空機がイーパーブの電波によってライフラフトを発見してコーストガードの救助船を誘導し、21日夕刻ライフラフトの2名を収容、救助された乗員は22日夕方無事グアムに上陸した。なお放棄した艇体はまもなく沈没した。
乗員の健康に問題を生じた艇が、スタート直前に火傷を負ったフリーランスを除いて3件あった。まず<A&M星羅>のスキッパーがポートシーをスタートした後腰痛が悪化したため、同日夕刻ポートシーに引き返しレースを断念した。 <ユーリカ·サンチェイサー3)のスキッパーは以前に痛めたことのある脊椎の状態悪化のため、イーデンに入港して治療を受けた後レースに復帰した。<ファイン·トレランス>のクルーは、足の具合が悪くなり、5月3日トラック島に寄港して医師の診断を受けた結果、治療のため帰国した。同艇のスキッパーは、その後ただ一人でレースを継続し、24日最終艇としてフィニッシュした。気の毒ではあるが、同艇はダブルハンドの条件に違反しているため、10%のタイムペナルティーが科せられた。結局棄権した艇は、スキッパーの健康状態による<A&M星羅>、浸水のため沈没した<サザン·デュフォー>、それに4月3日棄権を通告してきた<ビーバーハウス>の3艇であった。<ビーバーハウス>は3月29日から無線交信を停止していたが、エンジントラブルのためシドニーに入港し棄権した。
8. レース結果
各艇の所要時間を見ると、レーサークラスAの上位艇が出したスピードが、最高速度はともかく、平均で7.5ノットになている。風の強い海域ばかりでなく、赤道付近の風向不安定な所を通過するコースで、これだけの平均速力になっているのであれば、10ノット程度のスピードを出すのは珍しくなかったはずであり、艇の性能、乗員の技術が優れていたことを示している。
ファーストフィニッシュにかくれて目立たなかったが、レーサークラスCの健闘がきわだっている。上位3艇は終始ほとんど一団となって走っていたが、レーサークラスとしては最小の長さでありながら、より大型のクラスBより速く、クラスAの中位にくいこんでいる。このレースはハンディキャップなしのスクラッチレースだが、もしレーティングによる時間修正があったならば、優勝も考えられるくらいの成績であろう。
各艇の航跡を見ると、トラブルのためコースをはずれた場合を除き、ほぼ同一コースをたどっている。オーストラリア東岸では多少コースに差があるが、赤道を越えてからほとんど一線に集まっており、最短距離のコースを選んでいるのが分かる。
第1レグで良い成績でありながら第2レグで奮わなかった艇では、トラブルが致命的な影響を与えている例が見うけられる。せっかく良いスピードを出していたのに、トラブル処理のため時間を取られて回復できなかったり、トラブル後はスピードが下がってしまった艇がある。このような長距離レースでは事前の準備調整を十分に行うばかりでなく、トラブルをいかに素早く処理できるかが勝敗を分けていると言えそうである。
9. 第1回レースとの比較
今回の第2回レースと第1回を比較してみると右表のようになる。まずエントリー数は減少しそれにともなってスタート数も少なくなった。しかしエントリー実際にスタートした艇の比率はほぼ同じである。ただしリタイア艇の比率は今回は激減している。
バス海峡で荒天に遭わなかったおかげで艇の損傷が少なかっただけではなく、やはり参加艇の準備も前回の経験によって良くなっていたのであろう。特に目立つのはトップグループのスピードであり、前回の所要日数を10%ほど短縮している。また先に指摘したように小型レーサーが目覚ましいスピードを出している。その他クルーザーも所要日数を短縮しており、気象条件の問題、それに実際走った距離が短くなったのが影響してはいるであろうが、やはり艇の性能が向上しているように思われる。ただしトップ艇と最終艇との所要日数はおよそ2倍と変わってはいない。
各艇の航走距離をアルゴスの資料から集計すると、艇によって航走距離に差があるが、迂回コースをとった艇を除く平均航 走距離は、前回が予想どおり約5500海里であったのに対し、今回は少し短く5300海里足らずであった。前回の経験からあれこれコースを選ぶよりは、距離の短いコースを選んだ方が有利と判断した結果かも知れない。岬の先端を折れ線で結んだ最短距離は5000海里より短いが、この数字は実際には走れないような非現実的なコースである。にもかかわらず約51 00海里で走った艇があり、この辺りが実際上の最短距離であろう。次回にはもっと航走距離が短くなるかも知れない。ただし航走距離が短い艇が必ず先に到着するとは限らないところを見ると、風の良いコースを選択することも無視できないようである。
1991 レース | 1987 レース | |
---|---|---|
エントリー数 | 65 | 90 |
出走数 | 42 | 64 |
レーサークラス | (29) | (37) |
クルーザークラス | (13) | (27) |
リタイア数 | 3 | 17 |
レーサークラス | (3) | (11) |
クルーザークラス | (0) | (6) |
完走数 | 39 | 46 |
完走率 | 0.93 | 0.72 |
所要時間 | ||
レーサークラス | 28日 6.5時間 | 31日 19時間 |
クルーザークラス | 36日 17時間 | 38日 2時間 |
1着艇アベレージスピード | ||
レーサークラス | 7.5 ノット | 7.2 ノット |
クルーザークラス | 5.9 ノット | 6 ノット |
平均所要時間 | ||
レーサークラス | 36.9 日 | 41.1 日 |
クルーザークラス | 49.3 日 | 47.3 日 |
上位5艇平均航行距離 | 5250 海里 | 5410 海里 |
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